南三陸 2019年9月
4年ぶりの南三陸へ。
9月14日から16日の3連休を利用し、NPO法人フェローズ・ウィル様の主催される宮城県南三陸町でのボランティア・ツアーに参加してきました。
過去、2014年と2015年の2回、南三陸でのボランティアに参加し、今回で3回目。
復興の変化をこの目で確認できる、私にとっても思い入れのある町となっています。
東京駅を朝7時半に出発。バスの中は、ボランティアサークルに所属する女子大生たちや、学校の司書さん、印刷会社の研究開発者をリタイアされた、リリーフランキー似(女子大生談)のベテランさんなど。また、現地合流組として、愛知県から14時間かけて車で参加する男子大学生三人組や、救急救命士を志す大学生、山登りとマラソンとドラマのエキストラ出演がご趣味のご夫妻など、バラエティに富んだ総勢21名のツアーとなりました。
南三陸町に向かう途中、福島県浪江町で高速を降り、国道6号線沿いを走ります。
福島第一原子力発電所の事故に伴う帰還困難地域に隣接する街並み。今年の5月にはその帰還困難地域の中に入る機会があり、その時にも通った道です。
フェローズ・ウィルの代表、我妻さんは、その様子をこう表現しました。
「物言わぬ語り部」
あの日この街の人々は、激しい地震がようやく治まったかと思えば、突然防護服に身を包んだ自衛隊員に避難を促され、その家を離れざるを得なくなったといいます。その日から、限られた帰還時間はあるものの、その街から生活の明かりは消えてしまいました。
あれから8年が経過した今でも、すべての家や建物はごらんのような柵で入り口をふさがれ、入ることはできません。
人が消えた街は、雑草が荒れ放題に生い茂り、そこから生活の息吹を感じ取ることは難しくなっています。
帰宅困難が解除された地域でも、そこに戻ってくる人は数%に満たないといいます。今や人の数よりも、駆除しきれないイノシシの数の方が多いのだとか。
まさにその街の姿は、あの日起こった出来事の「物言わぬ語り部」として、私たちに訴えかけてきます。
9月14、15日は、南三陸町にある上山八幡宮のお祭りの日。
14日の宵の宮、15日の稚児行列のお手伝いが、今回のボランティアの主な活動です。
南三陸町は、震災前は人口17,000人が住む町でしたが、今は土地を離れた人も多く、残っているのは10,000人ほどだといいます。
この現実は、地域におけるコミュニティに大きなダメージを与えてしまいました。
お祭や町内行事のような、人手を必要とする営みを続けることが困難になってしまったのです。それが例え、100年を超えるような歴史を経て続けられてきた伝統行事であっても。
フェローズ・ウィルさんは、そういった行事や伝統の灯を絶やさぬよう、住民の方々と協力してボランティアで支える活動をずっと続けていらっしゃいます。
5年前の2014年の時にも、ここの宵の宮のお手伝いをさせていただきました。
上山八幡宮は高台にあるために、震災時には付近の住民の方の避難場所となったところでもあります。鳥居のすぐ近くにまで迫った津波は、ギリギリのところでそれ以上には進まず、多くの住民の方々の命を救った場所です。
会場や駐車場の設営、階段を彩るキャンドルの設置、神社内の清掃など、着いていきなりフル稼働。今年は出店がたくさん出ていたり、東京から合唱サークルの方々が来られて美しい歌声を披露したりと、当時よりもずっと活気にあふれ、にぎわいのあるお祭りとなっていました。
神社の中にある小さな舞台で演じられる夜神楽の厳かな雰囲気も、なかなか味わえないものです。
しかし、祭が終わって宿までバスに向かう道中。
この付近は街灯もなく、ただただ暗い闇が広がります。
今回津波の被害を受けた地域は、基本的には住宅を建てることができません。
なので、夜になると広大な平野は闇に包まれます。
「復旧とは、元に戻すこと。復興とは、今より良くすること」といわれます。
復旧は終わった、今はより長い復興を目指すのだと。
しかしその意味では、8年が過ぎた今の段階でも、決して元の状態には戻せていないのでしょう。
それだけ、あの出来事は街の、人々の生活環境を大きく変えてしまいました。
その深い闇は、復興への道程のよう。
明けて2日目、15日。
昨日は肌寒いような天気でしたが、この日は神様の祝福が降り注ぐような快晴。
今日は、稚児行列が行われます。
稚児行列とは、来年小学校に入学する6歳の子供たちが、神に仕える「童子」の衣装に身を包み、町内を練り歩くという、この街で長年に渡って受け継がれてきた大事な行事です。
震災の後は続けることができなくなっていましたが、地域の方のご尽力やフェローズ・ウィルさんのサポートもあり、昨年8年ぶりに復活。新しくなった南三陸さんさん商店街を練り歩くコースとなり、新たな伝統をつむいでいくことになりました。
かわいらしい衣装に身を包んだ子供たち。
この子たちは、震災前の南三陸を知りません。生まれてからずっと、“被災地”としての南三陸に生きてきた子供たちです。
未来の南三陸を支えるこの子たちの、その健やかなる成長を祈念して迎える、今日の佳き日。
子供たちの明るい笑顔が、忘れられない一日となりました。
とはいっても、実はこの日はまだ終わりではありませんでした。
お祭りが終わったのが昼の2時前。次の日は朝から雨の予報。なので次の日に予定されていた漁業支援を、晴れているうちに今からやってしまおうということになりました。
この日の作業は、ワカメの養殖に使うロープの事前作業。ロープに均等距離を置いて挟まれているワラを取り除く作業・・・と書いたところで、何のことかは全く伝わりませんよね(私も正しい説明ができる自信はありません)
とにかく人手が必要な、面倒この上ない作業なのです。
その後は、ブイとよばれる浮きにこびりついた貝やフジツボなどを一つ一つ取り除く作業。
漁業とは、こういった面倒な作業の積み重ねで成り立っているのだなと、つくづく感じます。
以前は漁師仲間で助け合いながらこなしていたであろうこういった作業も、人が少なくなってしまった今の状態では、とても漁師さんたちだけでこなせる作業量ではありません。
簡単な仕事だけど、とにかく人手がかかる作業。こういった場面で、ボランティアは活躍できます。夕方になってもカンカン照りの中、なんとか予定通りの作業を終わらせることができました。
明けた3日目は、予報通りの雨模様。
この日の漁業支援は、屋根の下で作業できる人数が限られるということで、6名ほどは屋内で作業、残りの人は気仙沼向洋高校の伝承館へと向かうことになりました。
先月ちょうど伝承館を訪問していた私は、作業グループへ。
この日の作業は、ホタテの養殖に用いられるロープに、15cm間隔で樹脂製のピンを挟んでいく作業。
他の方は手作業でキリのようなを使ってロープに穴をあけ、その穴に一本ずつピンを入れていくのですが、私はそれ専用の機械を用いての作業をやらせてもらいました。
等間隔で穴をあけ、ピンを挿入する作業が2ステップでどんどんできる優れもの。こういった作業に専用の機械があるのだなと、その機構のスマートさに感激します。
南三陸さんさん商店街は、以前は仮設置という状態での営業でしたが、かさ上げ工事が終了した地区に本設され、2017年3月に新しく生まれ変わりました。
設計したのは、来年の東京五輪に向けて建てられる新国立競技場を設計した、隈研吾さん。
その地からは、南三陸を象徴する震災遺構、南三陸防災対策庁舎が望めます。
とはいってもこの状態。周辺は公園の造成が行われており、今は近くに近づくことはできません。
また、建物自体も防錆塗装で塗り直され、以前よりいくぶんきれいな姿となっています。
過去の姿と比べてみましょう。こちらは2014年の姿。平野の中にポツンと建っている印象でした。
こちらは2015年。背後に大きな山が出現します。これがかさ上げの途中です。
そして今では、周囲を取り囲むようにかさ上げが行われ、庁舎そのものは覗き見るような形になりました。
震災の記憶を呼び起こすからと、周りの住民からは撤去の要望が寄せられていたこの庁舎。しかし全国から保存を望む声が高まり、今は県の施設として20年間保存されることが決まったそうです。20年後に保存されるかどうかは、その時のこの町の住民の方々の判断にゆだねられることになります。
その後バスに揺られて6時間。東京駅から我が家に帰宅。
PCに向かってこのレポートを書いています。
ボランティアの後にはいつも、大きな宿題を背負うような感覚があります。
Brass for Japanというチャリティーコンサートを運営し、続けていくことに、どのような意味を与えることができるのか。この活動をより意義のある形にしていくことはできるのか。
震災の記憶の風化が懸念されるようになって久しいですが、この問いはまだまだ私の中で問い続けなければならない宿題です。
そうそう。ぜひ皆さんにお伝えしておきたいことがあります。
今年の9月9日。台風15号が関東一円を襲い、特に千葉県で電力線の鉄塔が倒れるなどして約93万戸が停電するなど、大きな被害が出てしまいました。今現在(9月16日)でも、電気がまだ復旧せず、生活に大きな支障が出てしまっている地域も数多くあります。
今回南三陸を訪れ、現地の皆さんから、千葉県のことを心から心配し、心を寄せるお言葉をたくさん頂戴しました。
今や日本中、どこでどんな災害が起こってもおかしくない状況。決してまだ元通りの生活を送れているわけではなくとも、新たな被災地に想いをはせ、想いやる気持ちというのが巡り巡っているのだなと。
想いって、巡るものなんだなと、強く感じました。
今年のBrass for Japan2019にも、ブリティッシュブラスちばさんをはじめ、被害を受けた地域の方にもたくさんご参加いただいています。今回の台風で生活に影響が出ている方も少なくないかと思います。そんな方々全てに、遠く離れた南三陸から、自分達の生活も不安だらけなのに、それでも千葉へ想いを寄せてくれる方々がたくさんいることを、ぜひお伝えできればと思います。
数々の災害に直面する日本に住むものとして、被害にあわれた方に想いをはせ、想いを寄せるイベントであり続けたい。
改めてそう、想いを新たにします。
今年の10月22日。令和という新時代においても記念すべき日。
120人を超えるマスバンドのサウンドを通じて、東北と、災害に苦しむすべての人への想いをつなげられる日となりますように。
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